研究報告書
3研究開発の実施内容
(i)科学的リテラシーを育成するプログラムの実施と普及
a.科学に対する興味・関心の醸成
a5.総合講座
講演会「科学者の社会的責任」
評論家 加藤周一氏
目時:2006年12月12目
場所:本校オープンスペース
報告:篠塚明彦(社会科・地歴科)
評論家であり医師でもある加藤周一氏を招き、「科学者の社会的責任」をテーマとして講演をしていただいた。講演への参加は任意としたが、参加者は232名(高校生156名、中学生76名)という多数であった。講演では自然科学を中心に社会科学、人文科学も視野に入れ、広義の科学の問題について触れられた。
講演内容の概要は次の通りである。
19世紀には、技術が先行し、その技術を理論的に理解するために科学があった。蒸気機関車がつくられ、その後機関車を理論的に理解するために熱力学がつくられた。しかし、20世紀に入るとこの関係が逆転した。その端的な例が原子爆弾であった。原子爆弾は理論的な物理学の発達があり、その応用としてつくり出された。20世紀の科学技術は科学が先行し、科学が生み出す技術となった。こうした科学の先行が様々なことを生み出した。医学・生物学の理論的発達を応用することで、医学的な治療法や予防法が確立され病気がなくなっていく。例えば現在の日本にはコレラがなくなっている。これは科学技術の人類社会に対する大きな貢献といえる。伝染病のコントロールは、医学・科学技術の良い側面である。しかし、その一方で原子爆弾も科学技術の生み出したものである。原子爆弾は一発の爆弾で大量の人を一気に殺すことが出来るうえ、放射線病の患者を多くつくり、長い間人々を苦しめる。だから原子爆弾は科学者がつくり出した大きな罪悪である。科学技術というものは人間の環境を根本的に変える能力を持っている。人殺しの方向に向かうことも出来れば、人助けの方向に向かうこともできる。その両方に社会的責任がそこから生じることになる。
科学者の責任の問題では、前述のような劇的な、一目でわかるような責任問題だけでなく、科学者の協力や指導がなければ生じないような問題もある。その例が脳死である。臓器移植ためにはどうしても死んだ直後の人の臓器が必要となる。しかし、その人が死んだということがどうして言えるのかという問題が生じる。
そのためにはまず、「死ぬ」とはどういうことか定義しなければならない。その定義を全て満たしたときに「このときからこの人は死んでいる」といえて、臓器移植の臓器提供者として使うことが出来る。その定義の主なものは脳の機能である。だから脳死という言葉がある。専門家である医師がこの人は死んだと決めて、そこから臓器をとって移植する。移植をすると一人の人間の命が助かる。しかし、これだけで終わりという単純な問題ではない。脳死の判定は専門家にしかできないことである。脳死を認めなければ移植は出来ない。臓器移植をしたいから脳死を認めるようにという圧力がかかってくることがある。さらに、そうした圧力が経済的な問題と絡むこともある。健康な人の臓器が高額で売買されるというような闇商売が生じる。ここにも科学者の責任が関わってくる。健康な臓器をまだ死んでいない人からとってくるというのは臓器移植としては最も理想的である。臓器移植の技術を改善するためには大いに役立つ。こういうことをしている医師は例外的ではあるが、実際に世界中に広くある。生きている人から臓器をとると人殺しにつながるかもしれない。原子爆弾のようにわかりやすいものではないが、直接科学技術者に責任ある問題が生じてくる。そのようなことを一度許してしまうとどこまでいきうるのかということがある。
戦争中に日本占領下の中国東北部で石井部隊による生体実験が行われた。生体実験というのは生物兵器の効果や利用方法を確認するためのものであった。全く科学的な立場、医学的立場、あるいは純粋に生物学的な立場だけからいえば、医学の進歩のためには生体実験というのは大変有効な手段である。詳細は動物実験からだけではわからない。だから、生体実験は科学的な知識、医学的な知識、あるいは技術の増進のためにはプラスであることは否定できない。それは一面である。しかし、そのために人を殺すことは言語道断で、倫理的に罪悪である。科学の進歩のために役立つ実験は、同時に倫理的には悪魔的であるということになる。倫理的には悪魔的、科学的・技術的には有効、そして将来的には人間の命を救うことにつながるかもしれない。倫理は科学技術に優先する。それがはっきりしていないと問題が起こってしまう。原子爆弾の場合は、意図して悪用する。人を殺すために爆弾をつくる。ところが生体実験はそう簡単には言えない。実験する人ははじめから人を殺すためにやっているのではない。
倫理は科学ではない。正しいか正しくないか証明することができない。しかし、倫理がなければ社会は実に残酷で陰惨なものになってしまう。科学的でない思想・信念は科学の問題ではないが非常に大事である。もし科学者の倫理的価値に対する信念が弱ければ、極端な場合には生体実験にまで行き着いてしまう。ですから科学だけでは足りない。科学の有効性、能率ということを犠牲にしても倫理的な勇気を通さなければならい。倫理的な価値に対する信念というのは非常に大事である。それなしには大きな社会を運営することはできない。
次に科学的なものの見方・考え方について触れたい。科学的なものの考え方というのはふつうに人々が考えている考え方と食い違いがある。日常的に「薬が効いた」ということをいうが、科学的なものの考え方では、「薬が効いた」というのは、一人の人に効いただけでは効いたとは言えない。科学的には、大勢の人たちで調べ、薬を使わなかったグループとの間に明らかな差異が認められたときにようやく「薬が効いた」ということができる。それでもすべての人にその薬が効くとは言い切れない。医師が、病気の治療法について、学問的に本当に正直に述べるならば、この治療をすれば治るとは言えない。治る可能性が高いという確率のことしかいうことはできない。これが科学的なものの考え方ということである。科学的なものの考え方というものを理解して、その限界、有効性を正確に把握する必要がある。
医学は自然科学的技術だが、歴史や社会といった問題にはさらに複雑な問題が関わってくる。社会科学が成功すると現状肯定になる傾向が見られる。社会科学は原因と結果の因果関係を明らかにすることを目指す。因果関係が明らかになればなるほど、必然性ということにぶつかる。戦争の原因を取り除くことが出来なければ必然的に戦争が生じてしまう。そうであるならば、原因を取り除くことが出来ない限り事件が起こることを防ぐことは出来ないし、また抵抗することも出来ない。因果関係が明確に解明されればされるほど抵抗しても意味がないということになる。戦争の原因を取り除くことが出来なかった以上、今更戦争に反対したしても無理であると考えるようになってしまうのである。
自然科学、社会科学を問わず、大切なのは「疑う」という姿勢である、何事も疑うことから始まるという点を述べられ講演は一端閉じられ、その後、質疑に移った。科学と哲学の関わり、社会科学を学ぶことの意義、科学者と一般の人々にとって倫理の待つ意味の相違、科学者の責任と政治家の責任の関わりなど、多くの参加者より質問が寄せられたが、時間の関係もあり残念ながら全ての質問にお答えいただくことはできなかった。
講演後のアンケートによると、期待通り、あるいは期待以上であったという回答が目立っていた。またほとんどの生徒が今後の学習に役立つ、あるいは大いに役立つとの回答を寄せている。感想の中の代表的なものをいくつかあげると次のようなものである。「世間では科学の成果に対して疑いを待って考察する姿勢が不足しいていることに気づいた」「科学者の道に進みたいので倫理的な問題を踏まえた上で行動していきたい」「原爆投下の責任を改めて考え直した」「倫理は科学に優先するという言葉忘れないようにしたい」「自らが社会の中で如何にあるべきかを考えることが出来た」以上のような感想、アンケートの結果から、今回の講演のねらいを十分に生徒たちが受けとめてくれたものと判断している。
講演内容の概要は次の通りである。
19世紀には、技術が先行し、その技術を理論的に理解するために科学があった。蒸気機関車がつくられ、その後機関車を理論的に理解するために熱力学がつくられた。しかし、20世紀に入るとこの関係が逆転した。その端的な例が原子爆弾であった。原子爆弾は理論的な物理学の発達があり、その応用としてつくり出された。20世紀の科学技術は科学が先行し、科学が生み出す技術となった。こうした科学の先行が様々なことを生み出した。医学・生物学の理論的発達を応用することで、医学的な治療法や予防法が確立され病気がなくなっていく。例えば現在の日本にはコレラがなくなっている。これは科学技術の人類社会に対する大きな貢献といえる。伝染病のコントロールは、医学・科学技術の良い側面である。しかし、その一方で原子爆弾も科学技術の生み出したものである。原子爆弾は一発の爆弾で大量の人を一気に殺すことが出来るうえ、放射線病の患者を多くつくり、長い間人々を苦しめる。だから原子爆弾は科学者がつくり出した大きな罪悪である。科学技術というものは人間の環境を根本的に変える能力を持っている。人殺しの方向に向かうことも出来れば、人助けの方向に向かうこともできる。その両方に社会的責任がそこから生じることになる。
科学者の責任の問題では、前述のような劇的な、一目でわかるような責任問題だけでなく、科学者の協力や指導がなければ生じないような問題もある。その例が脳死である。臓器移植ためにはどうしても死んだ直後の人の臓器が必要となる。しかし、その人が死んだということがどうして言えるのかという問題が生じる。
そのためにはまず、「死ぬ」とはどういうことか定義しなければならない。その定義を全て満たしたときに「このときからこの人は死んでいる」といえて、臓器移植の臓器提供者として使うことが出来る。その定義の主なものは脳の機能である。だから脳死という言葉がある。専門家である医師がこの人は死んだと決めて、そこから臓器をとって移植する。移植をすると一人の人間の命が助かる。しかし、これだけで終わりという単純な問題ではない。脳死の判定は専門家にしかできないことである。脳死を認めなければ移植は出来ない。臓器移植をしたいから脳死を認めるようにという圧力がかかってくることがある。さらに、そうした圧力が経済的な問題と絡むこともある。健康な人の臓器が高額で売買されるというような闇商売が生じる。ここにも科学者の責任が関わってくる。健康な臓器をまだ死んでいない人からとってくるというのは臓器移植としては最も理想的である。臓器移植の技術を改善するためには大いに役立つ。こういうことをしている医師は例外的ではあるが、実際に世界中に広くある。生きている人から臓器をとると人殺しにつながるかもしれない。原子爆弾のようにわかりやすいものではないが、直接科学技術者に責任ある問題が生じてくる。そのようなことを一度許してしまうとどこまでいきうるのかということがある。
戦争中に日本占領下の中国東北部で石井部隊による生体実験が行われた。生体実験というのは生物兵器の効果や利用方法を確認するためのものであった。全く科学的な立場、医学的立場、あるいは純粋に生物学的な立場だけからいえば、医学の進歩のためには生体実験というのは大変有効な手段である。詳細は動物実験からだけではわからない。だから、生体実験は科学的な知識、医学的な知識、あるいは技術の増進のためにはプラスであることは否定できない。それは一面である。しかし、そのために人を殺すことは言語道断で、倫理的に罪悪である。科学の進歩のために役立つ実験は、同時に倫理的には悪魔的であるということになる。倫理的には悪魔的、科学的・技術的には有効、そして将来的には人間の命を救うことにつながるかもしれない。倫理は科学技術に優先する。それがはっきりしていないと問題が起こってしまう。原子爆弾の場合は、意図して悪用する。人を殺すために爆弾をつくる。ところが生体実験はそう簡単には言えない。実験する人ははじめから人を殺すためにやっているのではない。
倫理は科学ではない。正しいか正しくないか証明することができない。しかし、倫理がなければ社会は実に残酷で陰惨なものになってしまう。科学的でない思想・信念は科学の問題ではないが非常に大事である。もし科学者の倫理的価値に対する信念が弱ければ、極端な場合には生体実験にまで行き着いてしまう。ですから科学だけでは足りない。科学の有効性、能率ということを犠牲にしても倫理的な勇気を通さなければならい。倫理的な価値に対する信念というのは非常に大事である。それなしには大きな社会を運営することはできない。
次に科学的なものの見方・考え方について触れたい。科学的なものの考え方というのはふつうに人々が考えている考え方と食い違いがある。日常的に「薬が効いた」ということをいうが、科学的なものの考え方では、「薬が効いた」というのは、一人の人に効いただけでは効いたとは言えない。科学的には、大勢の人たちで調べ、薬を使わなかったグループとの間に明らかな差異が認められたときにようやく「薬が効いた」ということができる。それでもすべての人にその薬が効くとは言い切れない。医師が、病気の治療法について、学問的に本当に正直に述べるならば、この治療をすれば治るとは言えない。治る可能性が高いという確率のことしかいうことはできない。これが科学的なものの考え方ということである。科学的なものの考え方というものを理解して、その限界、有効性を正確に把握する必要がある。
医学は自然科学的技術だが、歴史や社会といった問題にはさらに複雑な問題が関わってくる。社会科学が成功すると現状肯定になる傾向が見られる。社会科学は原因と結果の因果関係を明らかにすることを目指す。因果関係が明らかになればなるほど、必然性ということにぶつかる。戦争の原因を取り除くことが出来なければ必然的に戦争が生じてしまう。そうであるならば、原因を取り除くことが出来ない限り事件が起こることを防ぐことは出来ないし、また抵抗することも出来ない。因果関係が明確に解明されればされるほど抵抗しても意味がないということになる。戦争の原因を取り除くことが出来なかった以上、今更戦争に反対したしても無理であると考えるようになってしまうのである。
自然科学、社会科学を問わず、大切なのは「疑う」という姿勢である、何事も疑うことから始まるという点を述べられ講演は一端閉じられ、その後、質疑に移った。科学と哲学の関わり、社会科学を学ぶことの意義、科学者と一般の人々にとって倫理の待つ意味の相違、科学者の責任と政治家の責任の関わりなど、多くの参加者より質問が寄せられたが、時間の関係もあり残念ながら全ての質問にお答えいただくことはできなかった。
講演後のアンケートによると、期待通り、あるいは期待以上であったという回答が目立っていた。またほとんどの生徒が今後の学習に役立つ、あるいは大いに役立つとの回答を寄せている。感想の中の代表的なものをいくつかあげると次のようなものである。「世間では科学の成果に対して疑いを待って考察する姿勢が不足しいていることに気づいた」「科学者の道に進みたいので倫理的な問題を踏まえた上で行動していきたい」「原爆投下の責任を改めて考え直した」「倫理は科学に優先するという言葉忘れないようにしたい」「自らが社会の中で如何にあるべきかを考えることが出来た」以上のような感想、アンケートの結果から、今回の講演のねらいを十分に生徒たちが受けとめてくれたものと判断している。
(文責 地歴科:篠塚明彦)
