山下清海編『エスニック・ワールド ―世界と日本のエスニック社会―』,明石書店,2008年

<<書評>>「地理科学」(地理科学学会),第63巻,第4号,pp.277-280,2008年10月

評者: 阿部康久氏(九州大学大学院比較社会文化研究院・准教授)


 本書のタイトルは『エスニック・ワールド』という一般人向けのタイトルであり,地理学関係の書籍を多く扱う出版社から出版されているわけではない。しかしながら,執筆者と内容を見ると,エスニシティ研究に精力的に取り組んできた地理学者たちによって,地理学的視点から書かれた書物である。多数の地理学者からなる執筆陣によって,エスニック地理学(以前は「エスニシティの地理学」という表現も多かったが,近年では,本書のように「エスニック地理学」という表現もみられるようになっている)に関して記された編著は,おそらくは,本書が初めてのものではないかと思われる。

 地理学においてエスニシティ研究に取り組む研究者が,量的にも質的にも層が厚くなってきている近年の状況が反映されていると言える。このような特色を持つ本書からは,近年の地理学におけるエスニシティ研究の動向や今後の課題について読み取ることができるだろうと考え,本書への書評を執筆することを思い立った次第である。本書の内容は,以下の各章から構成されている。

 はじめに

 第T章 エスニック社会の基礎
  1 エスニック集団とエスニシティ
  2 エスニック集団の適応戦略
  3 エスニック集団の住み分けとエスニックタウン
  4 エスニック・ビジネス
  5 エスニック地理学の研究史

 第U章 世界のエスニック社会
  1 海外の移民社会
  2 南北アメリカのエスニック社会
  3 ヨーロッパのエスニック社会
  4 アジア・オセアニアのエスニック社会

 第V章 日本のエスニック社会
  1 アイヌ社会
  2 日本のコリアン社会
  3 日本の華人社会
  4 日本のブラジル人社会
  5 日本のインド人社会

 おわりに

 第T章では,地理学においてエスニック社会を研究する際の,主要なテーマや研究の方向性を提示することが試みられている。本章では,エスニック集団あるいはエスニシティとはどのような概念であるかという点や,地理学における研究史について論じた上で,文化地理学や都市・社会地理学,あるいは産業・経済地理学的観点から,研究の方向性やエスニック地理学の主要な研究テーマを紹介するという構成になっている。

 例えば,エスニック集団の集住地区やエスニックタウンの形成に関する都市地理学的研究や,エスニック・アイデンティティの発露やエスニシティの観光資源化などによって形成されるエスニックな空間に関する社会・文化地理学的研究などの研究の方向性が示されている。

 第U章「世界のエスニック社会」では,本書の総頁の3/5の頁数を占める章である。本章の内容を大きく2つに区分すると,第1節「海外の移民社会」では,日系人社会,華人社会,インド人社会を事例にして,移民の送り出し要因や世界における分布状況について,解説している。

 これに対して,第2節「南北アメリカのエスニック社会」から第4節「アジア・オセアニアのエスニック社会」までの節では,エスニック社会を受け入れる側の国や地域の区分に沿って,エスニック社会の成立ちや現状を,地理学的視点から丁寧に解説している。とりわけ,調査が困難な海外において,地図情報データを駆使してエスニック集団の居住パターン等を分析する研究手法は,地理学のみならず,他分野のエスニシティ研究者や地域研究者からも高い評価を得られる内容が含まれているように思われる。

 また,この第2〜4節の執筆陣を見ると,エスニック集団に関する研究の専門家であるだけでなく,海外地域研究の専門家として著名な地理学者も多く含まれている。これらの世界におけるエスニック社会についての解説を読んでみると,ある国や地域を理解する際には,その国や地域におけるエスニック集団の状況について理解することが必須項目になっていることや,さらには,例えば地域構造や都市構造といった,より「地理学的」な事象を取り扱う際にも,エスニシティという要素が,重要な位置を占めていることを理解することができるだろう。

 第V章では,日本のエスニック社会に関して,アイヌ社会,コリアン社会,華人社会,ブラジル人社会,インド人社会を例に紹介がなされている。総頁数に占める割合は1/5程度と比較的少ないものの,本書が読者層の対象としている,エスニシティ研究をこれから始める学生にとっては,卒業論文や実習・巡検のレポートで,日本のエスニック社会を事例にした調査を行うことが多いと考えられるので,大いに参考になると思われる。

 以上のように本書は,多くの地理学者たちによって執筆されたエスニシティ研究に関する入門書であり,地理学におけるエスニシティ研究の研究動向と今後の課題を読み取ることができる。

 本書で紹介されているように,日本の地理学界においても,「エスニック地理学」の研究として,都市地理学におけるエスニック集団の居住分化に関する研究,文化地理学におけるエスニックな建造物や景観・場所,文化的行事等に関する研究,人口移動研究,エスニック・ビジネスの立地や展開,エスニック地区の観光化に関する産業・経済地理的な研究,エスニック・アイデンティティをめぐる政治地理学的研究など,様々な研究がなされてきた。エスニシティは,人文地理学が対象とする多くの研究テーマに対して関連性を持ち得る要素であると言えよう。

 このように人文地理学の様々な分野と関連性を持つエスニシティ研究であるが,学部生や大学院生が実際に研究を進めていく際には,大まかに分けると2つの方向性が考えられる。本書には「世界と日本のエスニック社会」という副題が付けられているが,一読した時点で,この「世界」と「日本」という2つのフィールドのうちいずれを選択するかという点は,実際にエスニック社会を研究しようと考える若手研究者にとっては,学位論文の作成や,さらには,その先にある研究職への就職という問題を考える上で,大きな分岐点になるように思われる。

 「世界」のエスニック社会をフィールドに選ぶのであれば,海外の大学に留学する等の手段で語学や研究手法を学び,現地のエスニック社会をフィールドとして研究する場合も多くなるだろう。このような海外地域を対象とした研究は,日本国内で研究するのに比べて多くの時間を必要とするが,他分野を含めて研究者の絶対数自体が少ないこともあって(海外の特定の国・地域に限定した場合,その傾向は特に顕著になる),地理学の研究者だけでなく,他分野の研究者からも大いに期待されていると思われる。また,若手研究者にとって最も切実な問題である「就職」の問題を考えても,比較的期待が持てるかも知れない(海外調査に要する費用や時間を度外視すればではあるが・・)。

 ただし,このような研究は,特に地理学界内部では,エスニシティ研究としてよりは,むしろ海外の地域に関する幅広い知識や調査・研究能力を評価されている気がしないでもない。そのため,日本においてエスニック社会に関する地理学的研究が今後も着実に発展をみせるためには,日本国内をフィールドにして,より多くの博士論文レベルの研究テーマを設定できるよう,研究の理論的枠組みや方向性を追求することが必要になっていると考えられる。

確かに,日本においても,今後も外国人や海外にルーツを持つ人々は着実に増加しているし,それに伴って,研究の対象となりえる事例も,多く報告されるようになるだろう。本書で取り上げられたもの以外でも,最近の話題で言えば,外国人看護士の受入れを巡る論議や外国人研修制度の改定論議など耳目を集める話題も多く,今後も日本におけるエスニック社会にまつわる研究テーマを探すことは容易になるとは予想できる。
 しかしながら,日本の地理学界の趨勢として,地理学においてエスニック研究を行う際には,エスニック集団の居住地区やエスニックな建造物・施設,文化的行事といったものが,ある程度の地理的範囲の中で,可視的に認識しやすい状態にまで達しないと,研究として取り上げるのは困難だと見なされる場合もある。この傾向は学界内で価値観の「多様化」が進んでいる現在でも,存在しているようにも思われる。

 このような傾向を払拭するためには,エスニック集団の居住パターンやその形成過程を明らかにするものや,あるいは,それらの居住パターンをエスニック集団が有する他の様々な特性(例えば就業状況等)や政治的・経済的背景と関連付けながら分析するといった,従来から行われてきた研究スタイルに加えて,エスニック集団が地域社会において果たす役割について,明らかにすることができる,他の研究スタイルを模索していくことも必要であろう。

 実際に,エスニック集団の居住地区が,他の地域と空間的に明確に識別できる状態にはならない場合であっても,エスニックな人々がホスト社会の中で,様々な制約を受けるであろうことは明らかであろう。結果として,彼(女)らがエスニックな人々を受け入れる地域において,特定の職業分野に集中することによって,地域社会を成り立たせる上で明確な役割を果たす事例は多く見られる。このような分布上の特徴を持ち得ないエスニック集団を地域という側面から検討していく視点を,より強調する必要があるようにも思われる。

 また,アカデミックな意味では,地理学的研究には直接は結びつかない可能性もあるが,本書の中でも指摘されているように,調査・研究を行うこと自体の社会的意義や妥当性についても考えておく必要があるだろう。

 以上,本書を読みながら,エスニシティ研究の方向性や課題について,評者が思いついたことを書き並べてみた。本来であれば,本書の内容や構成上の優れた点を,もっと紹介すべきなのに,評者の拙い考えで書面の多くを埋めてしまうことになってしまったことを恐縮している。ただ,読者が読みながら色々なことを考えられる書物は「良書」の条件を満たすものだと言える。その点においても本書は「地理学におけるエスニシティ研究」には,今後,どのような可能性があるのだろうかという点を評者に考える機会を与えてくれた良書であったと言える。

 これに加えて,本書は,初学者が興味をひきたてやすいよう,コラム欄を充実させている点や,写真や図表を多用している点など,様々な工夫がなされている。また,やや下世話な話になるが,出版事情が厳しい中で,多くの写真や図表を使用しながら,定価を2,310円に抑えている点も魅力的である。本書は初学者だけでなく,エスニシティ研究に関心がある研究者・教員にとっても,一読に値する書籍であるように感じた。

(阿部康久)