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特集「中国人の生活を支える池袋」 私も番組制作,コメント出演で協力しました。
探訪 池袋中華街
特集「池袋チャイナタウン計画~都会で広がる中国人社会~」
池袋チャイナタウン構想に関するニュースの特集 (英語および中国語)
2008年2月28日 共同通信社配信記事 北京五輪企画 「五輪の風―日中最前線(3)」 池袋に「チャイナタウン」 新華僑の生活支える →記事 2007年11月5日 読売新聞(東京本社) 2007年10月1日 The Asahi Shimbun(朝日新聞の英字紙) New Chinatown Caters to a New Generation of Immigants 池袋チャイナタウンに関する私のインタビューや「池袋チャイナタウン・ガイドマップ」などが紹介されています。 →記事
池袋華人街実至名帰 「池袋チャイナタウン・ガイド」についての紹介記事。→こちら(中国語)
池袋チャイナタウンの魅力の案内役として出演。 同番組のホームページ →こちら
池袋チャイナタウン 熱烈歓迎
池袋がもっと好きになる11のコラム 池袋特集の号で,池袋チャイナタウンについて取材を受けた記事(以下参照)です。 2006年9月10日深夜24:00~25:00放送 J-WAVE(FM 81.3) Growing Reed (V6の岡田准一さんのFMラジオの対談番組) その日のテーマは「中華街の秘密を教えてください」ということで,岡田さんの質問に答える形で,横浜中華街や世界のチャイナタウンについて対談した。 2006年8月16日 ニッケイ新聞(ブラジル,サンパウロ発行) 「世界唯一の日本人町」=中華街研究の山下教授=リベルダーデを再評価
2006年8月4日 サンパウロ新聞(ブラジル,サンパウロ発行) http://www.spshimbun.com.br/content.cfm?DO_N_ID=12065 2006年4月25日 テレビ東京(12チャンネル)の朝のワイドショー「朝は楽しく!」(8:00~11:00) 横浜中華街の特集のコーナーで,世界の中での横浜中華街の位置付けについて資料提供。 2005年4月6日,13日,20日,27日 NHK教育テレビの4月からの新番組,知るを楽しむ「なんでも好奇心」シリーズの4月放送分は,横浜中華街がテーマになっていました。この番組制作に関しては,私も企画,番組内での解説などを手伝いました。番組のテキストにも「世界のチャイナタウン」,「中国人留学生がみた横浜中華街」を執筆しました。 2005年1月21日刊 この本の解説ページ「ゴルゴ13ファイル」(pp.129-132)に,日本における中国人犯罪に関するインタビュー記事が掲載されした。 2004年6月2日および9日深夜番組 FM横浜「幸福的様子」
FM横浜(84.7)の深夜放送(午前1:30~2:00)の番組「幸福的様子」(DJは歌手の天雀さん)のコーナーの中で、チャイナタウンに関するテーマが取り上げられました。 2002年9月25日(夕刊)、読売新聞(大阪本社発行) 『関西おもしろ文化考』 第88話「中華街」 →記事参照 神戸 味も人も 馴染みの友 横浜 境界くっきり 良き隣人 男性の一つの理想を示す言葉がある。「西洋の館に住み、日本人女性を妻にして、中華料理を食べる」。中華料理といえば、日本では、エキゾチックな雰囲気をかもしだす中華街が一番。なかでも、横浜、神戸、長崎が三大中華街と呼ばれる。ここに住む華僑・華人と日本人の関係について、横浜中華街の発展会協同組合理事長・林兼正は次のように評する。「長崎は親戚(しんせき)」。長い間の歴史が、そんな付き合いを生みだしたからだ。そして、神戸は「友人」、横浜は「隣人」と。〈その心〉は……。 豚まん餃子懐かしい味 東洋大国際地域学部教授の山下清海によると、「中華料理」というのは和製中国語。「中国菜」が正しい。料理自体も海を渡ると、その土地の好みに変化していく。神戸では、餃子(ギョーザ)に味噌(みそ)ダレをつける習慣が広がり、天津包子(パオツ)を「豚まん」として売り出す。中国では、「肉」といえば豚肉のこと。だから、わざわざ「豚まん」とはいわない。しかも、「豚」の字は日本でいう子豚で、使うとすれば「猪」の字が正しい。 学校や廟は南京町の外 諏訪神社は神戸華僑の信仰を集める。早朝、お参りを終えた華僑らが太極拳に汗を流す(神戸市中央区諏訪山町で) 「街の成り立ちが、影響している。横浜にはなかった雑居地の存在が、神戸では大きい」。こう指摘するのは、横浜開港資料館調査研究員の伊藤泉美。神戸も横浜も開港時に、居留地が建設され、外国人はこの場所以外で住んだり、商売することは禁止された。ところが、神戸ではすぐに居留地が手狭になり、現在の中央区の西半分を日本人も外国人も住める雑居地とした。横浜は、居留地を拡大することで乗り切る。 横浜中華街は料理店が並ぶだけではなく、生活の場だ。観光客でにぎわう関帝廟の隣では華僑の子供たちが学ぶ(横浜中華学院で) 大陸と台湾机を並べて 神戸っ子のこうしたおおらかさは、街の呼び名にも反映された。横浜も神戸も、戦前までは「南京町」と呼ばれる。これは日本人がつけた名で、華僑自身は「唐人街」と呼ぶ。辛亥革命で南京に政府が生まれ、中国人を「南京さん」と親しみを込めて呼んだのが始まりだ。一時、差別的に使われたこともあり、横浜では一九五五年、「チャイナタウン」の訳「中華街」を街の名にする。神戸は「南京町で通っとるんやから、ええやないかと」(南京町商店街振興組合理事長・呉信就)。「南京町」は現在、商標登録され、神戸ブランドの一つになった。 祭りタブー女性も平気 伝統芸能の継承も、色合いは違う。旧正月(春節祭)の催しについて、香川大経済学部助教授・王維はこう分析する。神戸は多くの日本人が入り込んだ「地元の祭り」で、神戸の開放性が見える。横浜は華僑の結束が固く、閉鎖的で「中華街の祭り」にとどまっていると。 文 岩井 孝夫 2002年8月23日刊 この本の解説ページ「ゴルゴ13ファイル」(pp.89-92)に,サンフランシスコやニューヨークのチャイナタウンに関するインタビュー記事が掲載された。 2002年5月18日、日本経済新聞の土曜版「NIKKEIプラス1」 横浜中華街異聞、関帝廟が結ぶ華僑の故郷 →記事参照 2000年11月1日(夕刊)沖縄タイムスほか、共同通信配信記事 全国各地の新聞掲載 続々上陸するアジアタウン 中華街やソウルの人気市場など 成功のカギは固定客確保 韓国・ソウルの人気市場や中華街など活気あるアジアタウンが続々日本に上陸、話題を呼んでいる。東京都立川市の百貨店に昨春「立川中華街」がオープンしたのをはじめ、東京・渋谷に今年九月「東大門市場」と名付けられたファッション街が登場。十二月には都内に「台場小香港」がお目見えするほか、各地で中華街構想が浮上している。人気のアジアタウンをつくって集客の核にしようとの狙いだが、現場で働くアジア人の住環境整備など課題を指摘する声もある。 ●値引き可能 東京・渋谷のファッションビル「パルコクアトロ」の三、四階。日本人観光客に人気のソウル・東大門市場から来た衣類、雑貨など五十五店がひしめく。一店当たり約五平方メートルの狭い店が立ち並び、値引き交渉も可能という。 「東大門市場(トンデムンシジャン)」という名称のこの売場の店員はほとんどが留学生など韓国人。若い女性を対象に、安さと最新ファッションを素早く提供するのが売り物だ。 運営するマーケットプロダクションの近藤圭介企画開発部長は「ファッションで元気がいいのは東大門市場。将来的に全国五カ所くらい展開したい」と話す。 「立川中華街」はJR立川駅に隣接する百貨店「グランデュオ」七階に登場した新しいタイプの中華街。約二千三百平方メートルに横浜中華街や中国・上海からの出店も含め中華料理や食品雑貨など十九店が並ぶ。 商売の神様、関帝廟や風水思想に基づく四神の門などを設け中華街のたたずまいを演出。ビルを運営するジェイアール東日本商業開発の橋本啓史レストランフロア担当課長は「エンターテインメント性のあるフロアとして中華街を考えた。開店当初の爆発的な売り上げに比べると落ち着いたが、飲食店街としては高水準を維持している」と説明する。 ●構想が次々 東京・お台場の商業施設「デックス東京ビーチ」新館の六、七階に「台場小香港」が誕生する。香港や横浜中華街などから料理店や物販店など約二十店が軒を並べ、香港がテーマのアミューズメント施設も入る。カラフルな寺院や裏通りなど凝った造りで香港の再現を目指すという。 横浜中華街で料理店などを経営し、立川に店を出した曽徳深さんは「中華街という名前が高い評価を受けたので責任を感じ、何かお手伝いをと思った」と話す。お台場にも中国茶専門店などを出店。ただ最近は新たな依頼があっても「コックの養成が間に合わないのが実情」と言う。 中華街人気は高く、名古屋市・大須の大須三十番第一地区市街地再開発組合は十二階建て再開発ビルの三、四階に中華料理店などを誘致して中華街を建設、二○○二年末のオープンを目指す。このほか仙台市の長町地区や浦和市の埼玉高速鉄道の新駅周辺など構想がめじろ押しだ。 ●物足りない アジアタウンと銘打った商業施設を設け集客の目玉にしようという動きの広がりに対し、中華街やアジア地域に詳しい東洋大学の山下清海教授は「若い女性や旅行経験豊富な三十台女性を中心にアジアに対する関心が高まっているのがベースにある」と分析。ただ「新しいタイプの中華街は生活感や雑然とした雰囲気がないという点でやや物足りない」と注文を付ける。 こうした商業施設の成功は開店当初の人気と話題性をいかに固定客確保につなげるかがカギとの見方が多い。横浜中華街発展会協同組合の林兼正理事長は「中華料理店を並べた見た目だけの中華街ならすぐできるが、本気でつくるのならコックなど働く中国人の住環境など受け入れ態勢の整備や支援が必要」と話している。 1999年11月21日、朝日新聞 ちゃんぽん物語 長崎 (ふるさと亭) 長崎市の中華料理店「四海楼」。その四代目、陳優継(ちんまさつぐ)さん(三四)に、中華街の赤い門柱を背に立ってもらった。お盆の上には、できたてのちゃんぽん。ちょうど出前のような格好になり、「そう言えば」と、一昔前までは出前が圧倒的に多かったことを思い出した。 出前といえば、初代の曽祖父(そうそふ)、平順(へいじゅん)さんは、自転車で配達する郵便屋さんが登場すると早速、出前に自転車を使い、ハイカラ好きの町で話題になった。店の宴席で踊る中国舞踊の娘さんのけいこを土間でさせて、ちゃんぽん一杯の客も踊りを楽しめるようにした……。 * 明治の半ば、こうもり傘一本を手に上海から海路、長崎へ渡って来た曽祖父を語るとき、優継さんの目は、その残像を追うかのように細くなる。 「渡日して七年間は、反物を大八車に載せて行商し、一八九九年(明治三十二年)に料理と旅館兼業の四海楼を開いた。日本で苦労している同胞に、安くてうまくて、栄養たっぷりの料理を、と考えて作った品がちゃんぽんでした」 今は店の総務部長。ゆくゆくは店を継ぐ。曽祖父の故郷、福建省はすでに二回訪ねた。そこで、「ご飯は食べたか」というあいさつ語の響きが、「ちゃんぽん」という音に似ていると気づいた。 売り出したちゃんぽんは、たちまち、日本人の労働者の間でも人気になった。大正初期には、長崎で一番はやっているものの筆頭になった。「家人が、商標登録しようと持ちかけても、耳を貸さなかった。もしそうしていたら、これほどの大衆料理にはならなかったでしょう」 すでにちゃんぽんを看板にして生計を立てている同胞も少なくなかった。彼らを困らせるようなことをする気にはなれなかったのかも知れない。 * 長崎ちゃんぽんの店を全国に展開している「リンガーハット」は、もともと長崎でトンカツ店など十ほどの店を経営していた。一九七〇年代初め、マクドナルドなど外資系のチェーン店が全国展開を始め、「そうしたやり方でないと生き残れない時代になったと直感した」と米濱和英社長は語る。 ほどなく札幌ラーメンがブームとなり、店の前にも一軒できた。最初は好調でにぎわったが、結局、一年半後には店を閉めた。「ちゃんぽんに食われたのです」。その商品力を再認識し、ちゃんぽんのチェーン展開に踏みきる。 長崎の郊外に一号店を開いたのは七四年。広い駐車場、モダンな店内。値段は中華街より百円ほど安い二百五十円。味も、スパイスをきかせてあっさり気味に。これまでのちゃんぽんとは異なる新鮮さを計算した。 読みはあたり、いま全国に二百八十三店。「長崎の名物で商売させていただいています。長崎のイメージを壊すようなことはするなと社員を戒めている」 * 「リンガーハットさんも、ちゃんぽんの名前を全国的に広げてくれた」と、優継さんはエールを送る。「ただ、うちに来たお客さんから、リンガーさんの味と違うと言われたことがあって、がくっときました」。客のひと言を精進の糧にしている。 自立心と商才に富んだ曽祖父は、清朝末期の故郷を「後ろも振り向かずに」離れたという。なぜ、どんな気持ちで日本を目指したのか、優継さんは知りたい。そして、ちゃんぽんの歴史を伝えるものも作りたい。どちらも我が家の原点だから。 (文・写真 前川恵司) <メモ> 越中哲也・長崎歴史文化協会理事長は、鎖国の江戸時代で唯一の貿易港だった歴史が、「独特の長崎人気質を作った」と話す。町民の生活安定を優先する幕府の保護政策でおっとりした気風が育った。異文化に対する偏見がなく、暮らしに取り入れる精神をもたらした。食生活でも「ポルトガル貿易でてんぷらなどの油料理や砂糖、ベトナム・中国交易でブタ肉料理、オランダ貿易でテーブル料理」が伝わったという。 華僑を研究する山下清海・東洋大学国際地域学部教授は「福建省は、昔から移民が多かったが、南部の人はシンガポールや東南アジアに向かい、日本には平順さんのように北東部の福州郊外・福清から多く来た。この地方の人は、地縁血縁を大事にしてこつこつ働く、温和なタイプだった」と解説する。 1992年11月15日、朝日新聞 同胞からエール続々 川崎のコリアン・タウン構想 (時時刻刻) 川崎市内で焼き肉店などを営む在日韓国・朝鮮人の2世が打ち出した「コリアン・タウン構想」が、国内外で大きな反響を呼んでいる。韓国のマスコミや米国の韓国系新聞はいちはやく報道、韓国の政財界も関心を示し、有力な政治家側近からは激励の電話も入った。住民の理解や用地・資金の確保など、越えなければならない山は幾つもある。小さな芽が顔を出したにすぎないこの段階での反応ぶりは、在日韓国・朝鮮人をとり巻く環境の変化と無縁ではないようだ。 (川崎支局・永田稔) ●「夢」躍る見出し 「コリアン・タウン構想」は、約1万人の在日韓国・朝鮮人が住む川崎市の中でも特に在日の人が多い川崎区の通称セメント通り一帯に、ショッピングセンターや公益会館などをつくり、経済・文化の拠点にするとともに、観光ルートにもなるような街づくりをしようというもの。 世界でコリアン・タウンがあるのは米国・ロサンゼルスぐらい。日本国内には約70万人の在日韓国・朝鮮人が住む。最も密度が高いといわれる大阪市生野区桃谷地区でも、韓国大阪青年会議所と大阪青年会議所が中心になって84年、「コリア文化が薫る街づくり」の構想を打ち出したが、商店街の意見がまとまらず、足踏みしたままだ。 構想が新聞で紹介されると早速、韓国の有力紙・韓国日報が今月4日付の朝刊社会面で「日本にコリアン・タウンが建設されようとしている」という見出しで報じた。「『心のふるさと』・観光名所へ夢」と見出しは続く。 同紙東京特派員の文昌宰さん(46)は「どこの国にも民族の特色をいかした外国人街がある。構想は韓国人にとって大変喜ばしいことなので記事にした」と話す。 同様に、韓国の文化放送(MBC)がテレビで川崎の街の風景などを織り込みながら構想を紹介、キリスト教放送(CBS)もラジオで放送した。 ●政財界から激励 韓国日報が報じたあと、韓国の有力政治家の補佐役から、「コリアンタウン実現を目指す川崎焼肉料飲業者の会」の事務所に、「頑張ってください」と激励する国際電話が入った。 同会の理事長林允澤(リン・ユンテク)さん(61)が10月下旬、韓国を訪れ、大宇財団の理事長ら財界首脳と会った際に構想を紹介した時も、首脳たちは在日韓国人の地位向上と日韓貿易不均衡是正という点で関心を示し、「何らかの形で応援したい」と話したという。 米国の韓国系新聞も構想を報じ、在米韓国人社会にも話は広がった。 ●「日本は援助を」 国内の反応も素早かった。東京、大阪、神奈川の在日韓国・朝鮮人から問い合わせや励ましが相次いだ。大阪からは「こちらでは構想がいまひとつ進まない。川崎の例が解決の糸口を与えてくれるかもしれない」と資料などを求めてきたケースもあった。 在日韓国大使館も領事館を通じて情報を集めた。幹部職員は「ソウル五輪に続いて、日本国内の韓国・朝鮮人のイメージアップに一役買う可能性もある」と話したうえで、「最大の課題は資金。国内最大のマイノリティーに援助を与えることは、日本の国際的地位を高めることにもなる」と日本側の後押しを期待する。 「目指す会」が町づくりのモデルと考えている横浜・中華街の中華街発展会協同組合理事長林清文さん(78)は「中華街は日本政府の政策で中国人が一カ所に集まって住むことを余儀なくされたもので、モデルになるかわからないが、中国、台湾、東南アジア国籍の人々が仲良く働いている。韓国人も朝鮮人も手を取り合って町づくりを進めたらいい」とエールを送る。 ◎地位向上のあかし? 国内外の韓国・朝鮮人がコリアン・タウン構想に何故これほど敏感に反応するのか、専門家に聞いた。 ○東京大学東洋文化研究所の宮嶋博史・助教授(44) 在日1世にはいずれ祖国に帰るという意識があったが、2世、3世は日本で一生暮らしていこうと考えている。腰を落ち着けてやっていく目的意識に構想が合致したのだろう。 ○千葉大学文学部史学科の趙景達・助教授(38) 日韓貿易摩擦解消の何らかの足掛かりになる可能性があること、日本国内での地位向上に伴って余裕ができたこと、などが背景にある。 ○秋田大学教育学部の山下清海教授(41) 歴史的背景から日本人は朝鮮文化を中国文化より下に見ていた。それが、最近のエスニックやグルメブーム、ソウル五輪で、若い世代を中心に見方が変わってきた。そのことを在日の人たちも感じとっているのだと思う。 |